シンガーソングライターとして、当時若者から絶大な人気を誇っていた歌手・尾崎豊さん。
しかし、僅か26歳という若さでお亡くなりになりました。その死因については、報道・マスコミやネット上などで様々な情報が流れています。
また、尾崎豊さんが生前に残していた「2通の遺書」が公開され、大きな話題になりました。
今回は尾崎豊さんの嫁や遺書、死因についてまとめてみました。
https://thetv.jp/news/detail/42810/尾崎豊のプロフィール
https://www.m-on-music.jp/0000001612/名前 | 尾崎豊(おざきゆたか) |
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生誕 | 1965年11月29日 |
死没 | 1992年4月25日(満26歳没) |
出身地 | 東京都 |
職業 | 歌手・作詞家・作曲家・編曲家・詩人・実業家 |
身長 | 178cm |
血液型 | B型 |
Wikipedia | https://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎豊 |
尾崎豊の生い立ちや経歴
https://logmi.jp/尾崎豊さんが初めてフォークソングに興味を持ったのは、小学5年生の時だったそうです。当時、転校先の学校に馴染めず“不登校”になっていたとか。
そんな時、兄が購入して放置してあったギターを弾き始めたそうです。特に歌手・井上陽水さんの世界観に強く惹かれていたそう。
中学・高校と進学しましたが、喫煙・飲酒などで停学。高校を自主退学し、音楽の道へ進む事を決意したという尾崎豊さん。1982年にいくつかのオーディションを受け、合格しました。
https://twitter.com/erifumiya/status/847799731182907392翌年にデビューアルバム『17歳の地図』を発売しましたが、積極的なプロモーションなど行っていなかった事もあり、セールスは伸び悩んだとか。
しかし、徐々に口コミで人気が出るようになり、3rdシングル『卒業』は“過激な歌詞”が話題となりました。
瞬く間に人気歌手となった尾崎豊さんは、その後も“社会への反抗・疑問”をテーマにした曲を歌い、『10代の教祖・若者のカリスマ』と呼ばれるようになりました。
尾崎豊の嫁は尾崎繁美
https://blogs.yahoo.co.jp/byozakism/15178900.htmlhttps://www.hachi8.me/what-is-shizumi-ozaki/
尾崎豊さんと嫁・繁美さんの出会いは“ディスコクラブ”だったそうです。
嫁・繁美さんに一目惚れした尾崎豊さん。お2人は交際に発展し、尾崎豊さんが22歳の時に結婚されました。翌年には長男・裕哉さんが誕生しています。
家庭円満と思われていましたが、尾崎豊さんと女優・斉藤由貴さんとの『不倫』が報じられました。
http://idol.x-tada.com/尾崎豊さんが斉藤由貴さんのファンだった事もあり、尾崎豊さんの希望で企画された“雑誌の対談”で意気投合したとか。その後、お2人の『不倫旅行』がスクープされました。
報道後、嫁・繁美さんは離婚せず、家族3人で再スタートしようとした矢先、尾崎豊さんが亡くなってしまいました。
尾崎豊の遺書の内容
https://xn--ick3b8eyct505c6fc.net/ozakiyuya-hahaoya-genzai/「文藝春秋」12月号に〈尾崎豊の「遺書」〉と題された記事が掲載された。
スポーツ紙も追随し、大きな話題となったことは記憶に新しい。
その記事で明かされたのは、2通の尾崎の手による遺書全文。
うち1通には、尾崎の血判が押され
「血染めの遺書」と紹介されている。
遺書は、尾崎が作った歌詞さながらの詩的な文章でつづられている。
死の定義についても
〈生とは死を知り、生を葬ることである〉
と書かれ、
〈さよなら 私は夢見ます〉
と締めくくられる。
また、一粒種の長男には
〈君は間違いなく天使なのですよ〉
と尾崎の愛情がほとばしっているのだ。
https://www.asagei.com/excerpt/3899
感受性が豊かで繊細な性格だったという尾崎豊さん。そんな尾崎豊さんの死後『2つの遺書』が公開されました。
1枚は尾崎豊さんが愛用していたバックから発見され、いつ書かれたものかは分かっていないとか。尾崎豊さんの父親によると、亡くなる3年程前に書かれたものではないかと話しています。
2枚目は嫁・繁美さん、息子・裕哉さんへのメッセージで、こちらは自宅で見つかったそうです。この遺書も、いつ書いたのか判明していないとか。
尾崎豊さんの父親は、尾崎豊さんが過去に自殺しようとしていたのは“事実”だとコメントしています。